ミスiDへの見解

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「ミスiD、あまりにも露骨な女が率先して応募するようなった結果、出場した時点で無個性になってしまうバグが発生してしまったのが最大の欠陥なのでは」

という投稿をした

これについて更にもう少し掘り下げていく

 

露骨な女(この場合単なる知名度への味をしめた女)の賞への見方の変化が崩壊に繋がったと考えられる
崩壊の傾向はおおよそ2016年くらいから見られいて、特に今までとは違ったコンセプト(つまりはおかしいやつを演じてる)ように見える20ちょいの芸能関係の人間が、お気持ち程度の心意気で楽に伸びようとしてたのが客観視できた

 

それまでの本質として本来の人間としてのたった一つでもある魅力(審査員は何かしらのプラス要素と定義付けている)があれば全面的に評価すると言うスタイルで、それに枠があった人が比較的多く、いわゆる不安要素を持っていた10代の人間が多かった

 

2013年(初年度)

グランプリという概念はなく飛び抜けているからという理由で玉城ティナが受賞
2014年(2年目)

サイトの得票数1位の蒼波純が受賞
2015年(3年目)

金子理江と水野しずが受賞(黒宮れいも出場)
この年まではある意味で多くの意見を反映し加味してわかりやすい受賞者を出している印象

わかりやすい受賞というのはつまり「この人しかいないな」という人が出ていて、その人が評価されていたのが結局のところ大きい

 

2016年以降新たに設定が加え付けられミスiDのiは多様性のiとidolのiの兼任と謳われた
ここで少し別の方向へ道が逸れてしまいidolという言葉になんとなく目が向けられるようになる

コンテスト側の記述から

 

『ミスiD2016以降ではCHEERZやTwitter上で一般ユーザと交流する様子から応募者の個性を評価し、二次審査を経たファイナリストから選考委員の協議により複数名の「ミスiD」を決定する』

 

という形式を採用していることが分かった

この年はこれまでの受賞者ほどのインパクトのある応募者は集まらなかった

応募者の質の欠落は賞そのものの欠落の表れとも言える

 

2016年(4年目)

グランプリ:穂志もえか(保紫萌香
準グランプリ:ゆうこす(元HKT48
ファイナリスト: 長澤茉里奈(タレント、グラビアアイドル等)、一ノ瀬みか(アイドルグループ神宿)など
この年から芸能関係の人間が増えていて、且つ最後まで残る傾向がある
結局顔面が重要性を占めてしまい秀でているプラス要素があっても良くて特別賞程度に収まる器になってしまう(特別賞の存在を否定しているわけでは無い)

 

2017年(5年目)

男性ファイナリスト2名誕生

グランプリ:元E-girls武田杏香

2018年(6年目)

架空のキャラクターを取り入れて他の賞と区別立てた

グランプリ:兎遊ろるらり

2019年(7年目)

推薦エントリー実施

グランプリ:中井友望

準グランプリ:十味

2020年(8年目)

グランプリ:嵐莉菜

 

この4年は全面的な判断というより単なる奇抜性や顔面の良さが受けた

なんといっても最大の原因はこの賞が有名になってしまったこと

有名になった事により奇を衒うような人間も自ずと増えた(自分から応募したのにも関わらず興味のないフリをする等)

 

偶然性がこの賞と重なった時がやはり大きな因子となるのであって、そこに蓋然性は溢れている

賞の方向性は常に変わり勿論応募者も毎回変わっていく(再応募も含め新しい形であると認識した場合)

決して受賞者や審査員に不満があるわけではなく、足枷のようなものが多くなりこのような変遷を踏んできた事を紐解いてみただけである

次はどのように変わっていくのか…

ブログの秋

100日をすでに切っているセンター試験までの日をどう過ごすか考えている

わりと顔が良いからやめてもなんとかなるけどまあここまでやってきたし一応頑張ろう

好きな人がいてその人と多分もうほとんど会う機会がない

そもそも話した事がないし相手は多分自分のことを知らない

一目惚れの詩をやりきれない気持ちを入れて投稿したりしたけどね

そんなもんじゃ防ぎきれない思いってあったりする

そんな強い思いを受験に向けられたらなあ

まずあんまり寝れないのが本当に辛い

背徳感っていうのか分からないけど勉強しなければという事ばかりで特に身体は固まってる

まあしゃーない

最近は西武デパートのロフトの行き方が分からないのでペンとか買うことを諦めてる

多分初めて秋を猛烈に感じている

今日は7時起きか

今は5時前

何をやっているのか…

あれはいつか

中学校

不安の中入った学校は途轍もなく恵まれた環境で、人間関係も上手くいっていた

孤独感を感じる事などなく、辛い朝も気分良く迎えることが出来た季節

明日時間があるならと、遊ぶ約束をしたり帰り際にゲームセンターに寄り道してはしゃいでいた

また機会があれば遊ぼうねなんて会話をしながら時は流れていく

吹き抜けの校舎の最上階で短い休み時間に、生徒手帳に記された10月の予定を友達と確認しながら秋風に吹かれ、これが青春だと確かに感じていた

心の廃れと疲れを感じ始めた2年目の夏

些細な事ではあると思うが、積年の思いを諭された瞬間だった

教師にお前は自分の殻に篭ってなにか自分ではない違うものを演じていると言われた

屈辱だとか怒りを大きく通り越し自分の気持ちは呆れで沢山だった

その日から酷く教師という存在を存在的観点から睨むようになった

だいたいお前達は何様なんだ

人格を確定する権利なんか何一つないし結局お前達は金を貰って動いているに過ぎないんだから、教育とかいう塵みたいな盾を使ってまで話し掛けてくるなと思った

考え過ぎずに適当にやり過ごせればそれが一番良いに決まってる

人間が健康状態であればそれ以上のことはもう無いし、必要も無い

すっかり疲れた少し前の梅雨に、自分の頭から忘れかけていた白い紫陽花を見かけた

記憶は曖昧だが確か花言葉に「寛容的」のような意味合いがあったと思う

生きる上において大切なことは人間を揶揄する事で無く、この白い紫陽花のように侘しいながらも寛容になって認める事だと思う